震災から5ヶ月後のまち……
大船渡市/陸前高田市/気仙沼市/南三陸町
2011.8.9


 この日の数日前、気仙沼に行こうと思ってる、と友人の花火愛好家さんに言うと、案内してあげると言ってくれた。平日だったので少し躊躇したが、素直に好意に甘えることにする。2011年8月9日、午前9時頃、僕は彼の車の助手席に座らせてもらい、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市、南三陸町の被災地を案内してもらった。

 瓦礫が散乱し足の踏み場もなかったまちは行政や市民、ボランティアの人々の力で片付けられ、これでもだいぶきれいになったのだと彼は言った。初めて来た場所だが、ここがどういう場所だったかは分かる。店や工場、家屋などがずらりと建ち並ぶ気仙沼港の繁華街だった。何もかもが破壊されて無くなっている。


 陸前高田市に行ってよく理解したことがある。被害が甚大だった場所はすべて土地が平らなところ。当然のことながら平らな土地は建物や道路が作りやすい。だからそういう場所に人々は集まり始め、街が形成されていったのだと思う。だが、巨大津波に対しては逃げ場がなかった。津波は3階、4階の高さにまでなったという。その高さを超える高台の土地などは、辺り一面見渡してもどこにも無かった。

 4階まで海水が来たというマンションの外壁に触ってみた。そしてそのまま4階部分を見上げてみた。それから海の方向を見てみた。だが海は全く見えない。それもそのはず、ここから海まではなんと1キロも離れているからだ。今度はそのスケールの巨大さにうまく理解できなくなった。あの4階の高さまで、辺り一面が海と化す状況なんて、とても想像できない。

 陸前高田市の海から3キロも離れた所に来てみた。ここにまでも10メートルを超える津波が襲ったという。そこに立ってみて素直に思う。僕がここに住んでいたならば、きっと逃げなかっただろうと。いくらなんでも、ここまで津波が来る訳がないと思った筈だと。東日本大震災による犠牲者の92.4パーセントは溺死が死因となっている。とにかく悔しいが、津波の怖さを代々語り継がれてきた地域の人々でさえも、想像を遥かに超えてしまったということか……。海岸付近で大きな揺れを感じたら、とにかく遠くへ、とにかくより高い方へ逃げろと語り継いでいくしかない。


 2011たまむら花火大会の箇所でも触れたが、福島第1原発は地震発生直後、1号機から3号機が自動停止。送電線からの電気供給がダウンしたため、バックアップ用の非常用ディーゼル発電機が自動起動し原子炉の冷却を行ったという。しかし、推定13メートルの津波に襲われ非常用電源設備が冠水。冷却手段を失った原子炉では過熱による炉心溶融が発生。3月12日、第1原発1号機で水素爆発。13日、3号機の燃料棒が露出。14日、3号機で水素爆発。結果、大量の放射性物質が外部に放出されたという。

 誰もが納得できない部分がある。

 それは、何故、緊急時の危機回避手段がたったひとつしか用意されてなかったのか、ということだ。放射能漏洩事故の危険性を常に背負っている施設の危機回避手段がたったひとつしかないなんて。原発のフェールセーフとフォールトトレラントは一体どうなっていたのか。

 事故が大惨事に直結する航空機は、危機に直面したときに備え何重もの安全装置を設置し、より完全に近づけるようフォールトトレラントを充実させている。福島原発はどうだったのか。地震発生も津波発生も充分想定できる。非常用電源設備が冠水することだって容易に想定できる。その冠水の対策やその先の安全対策は何故装備されていなかったのか。現代の技術をもってすれば、実にさまざまな対策を施しておくことが可能だった筈だ。危機管理対策の怠慢が取り返しのつかない悲劇を起こしてしまった。


 とにかく原発の問題と避難生活者の対処が最優先課題なのだと思う。見ていて、日本の政治はとてもおかしい。大震災の被害に立ち向かわなければならないのに団結すらもできない。既に、震災から1年8ヶ月も経ってしまっている。

 2012.11.7 ページ公開。※サムネール写真をクリックすると拡大されます。